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テンプル騎士団と重火器らぶずっきゅん

十字軍~宗教戦争まで

十字軍と宗教戦争についてざっくりまとめました。
ほぼ自分用のメモです。

11世紀~17世紀までのキリスト教の大まかな歴史や宗派などを簡単にまとめました。
ですがちゃんと理解できている自信がありません。タスケテ

 

簡易年表

端的に言うと自分が興味あるところだけまとめました(ローマ・カトリック教会エルサレム王国、異端に関係ありそうな地域+主要な宗教戦争だけ)。抜けがあったらすみません。
イベリア半島(主にレコンキスタ)やイスラム教の歴史その他もろもろはまだ手をつけていないので除外しています。

対立教皇に関しては正規の手順で選出された、あるいは当代の中で最初に就任した人物を「ローマ教皇」とし、それ以降に就任したか非正規の手順で選出された人物を「対立教皇」と表記しています。

それぞれの十字軍別に色分けしてみました。全8回でカウントしています。
第一次十字軍(赤)
第二次十字軍(黄色)
第三次十字軍(オレンジ)
第四次十字軍(黄緑)
第五次十字軍(水色)
第六次十字軍(青)
第七次十字軍(紫)
第八次十字軍(ピンク)

戦争や対立が起きた理由は大体以下のような感じでしょうか?

  1. 異教徒の排斥(第一回十字軍など)
  2. キリスト教論の解釈の違いなどから生じた異端の排斥(アルビジョワ十字軍、三十年戦争など)
  3. 教皇(宗教権力)と神聖ローマ皇帝(世俗権力)の優位性を巡るもの叙任権闘争など)
  4. 教皇公会議の優位性を巡るもの(コンスタンツ公会議など)
  5. 教会の是正(グレゴリウス改革、プロテスタント諸派など)
  6. 利己的なもの。ほぼ宗教関係ない(第四回十字軍、聖サバス戦争など)

 

<教会の分裂(シスマ)と大分裂(大シスマ)の違い>

おそらく対立教皇の期間の度合いによって区別されていると思います。
グレゴリウス10世の場合は彼がパワハラすぎて枢機卿全員がローマから逃亡し、枢機卿たちはアヴィニョンで新たに教皇(クレメンス7世)を立てたみたいです。
この場合はどちらも同じように正規の手順(同じ枢機卿団が選んでいる)を踏んで選出されているので結果的に対立の期間が非常に長引くことになりました。

枢機卿…グレゴリウス改革を通じて役割が大きく変化。
もともとはローマ市内やその近辺の教会に就任しつつ、交代で教皇典礼の補佐を行う役目を与えられていた。
改革後は新教皇の選挙権が付与されたほか、教会の行政や教義に対し教皇枢機卿での共同統治、教皇庁内の財務局、書記局、聴罪局、控訴院の管理を行った。
1130年の教会分裂以降は法学者の割合が多くなる。

西暦 できごと
1049年 ローマ・カトリック教会ギリシア正教が分裂。
ローマ教皇コンスタンティノープル総主教がお互いを破門に処す。
1049年 グレゴリウス改革開始。
1058~1059年 ローマ教皇ステファヌス9(10)世の対立教皇ベネディクトゥス10世が立てられる。
1061~1072年 ローマ教皇アレクサンデル2世の対立教皇ホノリウス2世が立てられる。
1072年 ノルマン人がパレルモを奪還、シチリア王国が成立する。
1075年3月 叙任権闘争が開始。
1080年頃? ファーティマ朝支配下エルサレムホスピタル騎士団
(後の聖ヨハネ騎士団。設立してしばらくは戦闘には従事しておらず、軍事活動が組み込まれるのは1130年以降)が設立される。
1084年 ケルン出身の隠修士ブルーノがグルノーブル近辺の山間で共同生活を開始。
カルトジオ会の発端。
1084~1100年 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世により、ローマ教皇グレゴリウス7世の対立教皇クレメンス3世が立てられる。
1087年 ローマ教皇ヴィクトル3世が北イタリアの都市(ジェノヴァ、ピサ、ヴィネツィア)に
チュニジア襲撃を命じる。
1095年 セルジューク朝に押されていたビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ピアツェンツァ教会会議にて西方諸国に援軍を要求。
1095年11月18日 ローマ教皇ウルバヌス2世がクレルモン教会会議にて
第一回十字軍への参加を説いた。
1096年3月 民衆十字軍(隠者ピエールを筆頭に貴族や非武装巡礼者などが入り混じっていた)が
コンスタンティノープルビザンツ帝国)へ進軍。
このときラインラントでユダヤ人に対し暴動が発生。
1096年8月15日頃 第一回十字軍の遠征開始。
4部隊に分かれて進軍。
1097年5月6日
~6月18日頃
ニカイア包囲戦。
1097年7月1日 ドリュラエウムにてルーム・セルジューク朝の一団と戦闘。
1097年 十字軍の本隊からボードゥアン・ド・ブローニュとタンクレード・ド・オートヴィルが離脱。
南下しタルソス(キリキア)へ。
1097年10月半ば ボードゥアンとタンクレードがマラシュ(アルメニア)にて本隊に合流。
1098年2月半ば 本隊から離脱したボードゥアンがエデッサに到着
(アンティオキア戦には不参加)。
1097年10月20日
~1098年6月28日
アンティオキア戦。
1098年 ブルゴーニュ地方のディジョン近郊の荒野(後にシトーと呼ばれる)でシトー会の原型が誕生。
1098年11月28日
~12月11日
十字軍がマアッラト・アン=ヌウマーン(町の名前)で略奪。
1099年3月1日 タラント公ボエモンが本隊から離脱しアンティオキアに戻る。
1099年2~5月 アルカ要塞戦。
1099年6月7日
~7月15日
第一回十字軍によりエルサレム陥落。
1100年 ローマ教皇パスカリス2世の対立教皇テオドリクスが立てられる。
1102年 ローマ教皇パスカリス2世の対立教皇アルベルトゥスが立てられる。
1105~1111年 ローマ教皇パスカリス2世の対立教皇シルウェステル4世が立てられる。
1107年秋 ノルウェー王シグルズ1世がコンスタンティノープルへ向け出港。
ノルウェー十字軍と呼ばれる。
1110年10月19日
~12月4日
シドン包囲戦。
1111年 シグルズ1世がコンスタンティノープルに到着し、その後帰国。
1113年 ローマ教皇パスカリス2世により勅書『Pie Postulatio Voluntatis』が発布。
エルサレム王国の聖ヨハネ騎士団西方教会の庇護下に入る。
1118~1121年 ローマ教皇ゲラシウス2世の対立教皇グレゴリウス8世が立てられる。
1119年 ユーグ・ド・パイヤンがテンプル騎士団を創設、初代総長となる。
1119年6月28日 サルマダの平野でセルジューク朝イル・ガーズィー・イブン・アルトゥクとダマスカス摂政トゥグテキーンの襲撃を受け、
アンティオキアの摂政サレルノ伯ルッジェーロが死亡。
1120年 聖ヨハネ騎士団が正式に修道会として認められる。
1123年 第一回ラテラン公会議。グレゴリウス改革終了。
1124年 ローマ教皇ホノリウス2世の対立教皇ケレスティヌス2世が立てられる。
1129年1月 トロワ公会議にてテンプル騎士団が正式に修道会として認められる。
同時にユーグは西方の各地で説教を行い、民衆に十字軍への参加を促す。
1129年11月末 ユーグの招集した十字軍がダマスカスに攻撃を仕掛けるが失敗。
1130年2月~1138年 教会分裂(シスマ)。
ローマ教皇インノケンティウス2世と対立教皇アナクレトゥス2世が立てられる。
1138年 ローマ教皇インノケンティウス2世の対立教皇ウィクトル4世が立てられる。
1140年代 バルト地域やリスボンにてキリスト教徒軍(十字軍運動の一環として活動)の
襲撃が発生。
1144年11月末
~12月24日
エデッサ伯国セルジューク朝イマードゥッディーン・ザンギーによって陥落。
1145年12月1日 ローマ教皇エウゲニウス3世より教皇勅書『Quantum Praedecessores』が発布。
第二回十字軍発足のきっかけとなる。
1146年夏 説教師ラウルに扇動された民衆がラインラントのユダヤ人を迫害。
1147年3月頃 第二回十字軍の遠征開始。
1147年10月~ アナトリア半島の西側でドイツ王コンラート3世率いるドイツ軍が
ルーム・セルジューク朝マスウード1世の襲撃を受け敗北。
コンスタンティノープルへ引き返す。
1147年12月28~29日 メンデレス渓谷でフランス王ルイ7世率いるフランス軍がトルコ軍と戦闘。
1148年1月6日 カドムス山(ホナズ山)でフランス軍がトルコ軍の襲撃を受ける。
1148年3月初め
~3月19日
フランス軍アンタルヤからアンティオキアまで船で移動。
1148年4月初め コンラート3世が船でアッコに到着。
1148年6月終わり パルマレアにて公式集会が開催。
第二回十字軍の目的をダマスカス制圧に設定。
1148年7月24~29日 ダマスカス包囲戦、しかし失敗に終わる。
その後フランス軍・ドイツ軍ともに帰国。
1150年頃 ボードゥアン3世とその母メリザンドがエルサレム王国の統治権を争って対立。
1153年 エルサレム王ボードゥアン3世がアスカロンを掌握。
1159~1164年 ローマ教皇アレクサンデル3世の対立教皇ウィクトル4世が立てられる。
1163年 カタリ派駁論』が出版される。
1163年9月 エルサレム王アモーリー1世がセジプトへ南下中、
ファーティマ朝宰相ディルガムの軍隊と衝突。
1164~1168年 ローマ教皇アレクサンデル3世の対立教皇パスカリス3世が立てられる。
1164年 ハリムの戦い。
セルジューク朝ヌールッディーン軍との戦いに負け、アンティオキア公ボエモン3世、
トリポリ伯レイモン3世、エデッサ伯ジョスラン2世の息子(ジョスラン3世?)、
キリキア統治者のコンスタンティヌス・カラマノスらが投獄される。
1164~1169年1月2日 アモーリー1世、ファーティマ朝エジプト、
セルジューク朝総督アサドゥッディーン・シールクーフの間でなんかいろいろあった。
結果ファーティマ朝が消滅。
1168~1178年 ローマ教皇アレクサンデル3世の対立教皇カリクストゥス3世が立てられる。
1169年 アイユーブ朝設立。
1170(1173)年 リヨン商人のヴァルデスが民衆を対象に福音を説教し始める。
ヴァルド派の発端。
1171~1172年 ローマ教皇アレクサンデル3世により教皇勅書『Non parum animus noster』が発布。
1174年夏 ナイル川河口の三角州でサラディンシチリア王グリエルモ2世が送った軍勢が衝突。
サラディンが勝利。
1177年 サラディンエルサレムに襲撃するも失敗。
1177年 トゥールーズ伯レイモン5世がシトー会士から成る反異端の伝道団を招聘。
真の意図はトゥールーズ伯家を取り囲むカペー王権、イングランドプランタジネット朝
プロヴァンスバルセロナ伯家の介入を阻止することだったが特に成果なし。
1179年3月 第三回ラテラン公会議が開催、教皇の選出方法が改正される。
1179~1180年 ローマ教皇アレクサンデル3世の対立教皇インノケンティウス3世が立てられる。
1179年 ヤコブの浅瀬の戦い。
1180年前半~ エルサレム王国で内部分裂が激化。
1182~1183年 紅海沿岸でルノー・ド・シャティヨンが商船や巡礼船に襲撃を繰り返す。
1183年 サラディンエルサレム全軍を誘い出すが失敗に終わる。
1184年 ヴェローナ教会会議が開催。
ヴァルド派をはじめとする多数の宗教運動に異端が宣告される。
1186年 ラク統治者ルノー・ド・シャティヨンがイスラムの隊商を襲撃。
~1187年4月 サラディンエルサレム王国間で結ばれた休戦協定の期限が切れる。
1187年5月7日 クレッソン泉でアル=アフダル(サラディンの息子)率いるイスラム教徒軍が
テンプル・聖ヨハネ両騎士団を含むキリスト教徒軍と衝突。
キリスト教徒側は聖ヨハネ騎士団総長をはじめとした大勢が死亡。
1187年7月3~4日 ヒッティーンの戦い。
同行していたエルサレム王ギィ・ド・リュジニャンは捕虜となる。
1187年7~9月 サラディン軍が十字軍国家の各地を掌握。
1187年9月25日
~10月2日
イスラム教徒軍によりエルサレム陥落。
1187年10月29日 ローマ教皇グレゴリウス8世により教皇勅書『Audita tremendi』が発布。
1189年9月3日
~1190年3月
イングランドユダヤ人が迫害される。
1190年7月4日 第三回十字軍の遠征開始。
1190年 アッコ包囲戦中にドイツ騎士団が誕生。
1191年7月3日 2年ほど続いたアッコ包囲戦で十字軍が勝利。
1191年9月7~10日 アルスーフでイングランドリチャード1世獅子心王)とサラディン軍が戦闘。
1191年12月 リチャード軍がエルサレムに進軍するも失敗。
1192年春 リチャード軍がエルサレムに進軍するも失敗。
1192年8月8日 イスラム軍と十字軍の間で協定が結ばれ、
ヤッファ~アッコン間がキリスト教徒に開放されることとなる。
これ以降テンプル騎士団の本部はアッコンに移る?
1197~1198年 キリスト教徒軍がベイルート・シドン奪還を試みる。
1198年 ローマ教皇インノケンティウス3世により教皇勅書『Post miserable』が発布。
1199年 ローマ教皇インノケンティウス3世が正式にドイツ騎士団を承認。
1101年~1102年? 巡礼者、騎士、従士を載せた船(二隻ほど)がマルセイユから出港。
1年間エルサレム王国で奮闘した後1203年に帰国
(1203年4月25日にコンスタンティノープル付近で第四回十字軍とすれ違っている)。
1202年10月初旬 第四回十字軍の遠征開始。
1202年11月11~14日 十字軍とヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロがザーラを制圧。
1203年7月10
~8月1日
十字軍(エンリコ含む)とビザンツ帝国アレクシオス(イサキオス2世の息子)がコンスタンティノープルを陥落。
アレクシオスはアレクシオス4世アンゲロスとして戴冠。
1204年4月9~13日 十字軍(エンリコ含む)によってビザンツ帝国崩壊。
直後にラテン帝国などが建国される。
第四回十字軍はエルサレム王国の地を踏まないまま終了。
1204年~ ローマ教皇インノケンティウス3世により
バルト地域の異教徒迫害が十字軍運動と認められる。
1208年1月13日 トゥールーズ伯レイモン6世配下の騎士が教皇特使ピエール・ド・カステルノーを殺害。
アルビジョワ十字軍結成の発端となる。
1209年 ローマ教皇インノケンティウス3世がアッシジのフランチェスコとその仲間たちに
フランシスコ会の設立を口頭で許可する。
1209年7月22日
~8月14日
アルビジョワ十字軍がベジエおよびカルカソンヌを襲撃。
アルビジョワ派をはじめとする異端者が迫害される。
1212年 ローマ教皇インノケンティウス3世により教皇勅書『Quia maior』が発布。
1212年 フランスとネーデルラントで少年十字軍が結成。
1214年 フリジアのベドゥム郊外で
十字軍説教師オリヴァー・フォン・パーダーボルンが集会を開催。
1215年 フランスのプルイユでドミニコ会が設立。
1215年11月 第四回ラテラン公会議開催。
告白の勧めなどカトリック史上初めての一般信徒への司牧が議題となる。
1216年 ローマ教皇ホノリウス3世によりドミニコ会が承認される。
1217年5月29日 第五回十字軍の遠征開始。
1217年秋~ ハンガリーアンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世、
キプロス王ユーグ1世らがイスラム教徒軍に戦闘を仕掛けるも失敗。
1218年頃 テンプル騎士団がシャトー・ペルランを建設。
1218年4月終わり 第五回十字軍がアッコに到着。
1218年8月24日
~1219年11月5日
ダミエッタ包囲戦。
1221年8月 十字軍はアル=カーミルの陣地マンスーラ目指して南下。
しかしナイル川氾濫に巻き込まれ8月28日に降伏、
ダミエッタはアイユーブ朝へ返還される。
1223年 ローマ教皇ホノリウス3世によりフランシスコ会が正式に承認された。
1227年 ドイツ騎士団によりモンフォール城の建設開始。
1229年2月18日 エルサレム王フリードリヒ(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)と
アイユーブ朝アル=カーミルの間で協定が結ばれる。
1231年春 フリードリヒ2世から送られた金印勅書および教皇グレゴリウス9世の勅書に基づき、
ドイツ騎士団によりバルト地域の異教徒への十字軍運動(迫害)が行われる。
1233年 教皇グレゴリウス9世によりラングドック地方にグレゴリウス9世が任命した異端審問官
ドミニコ会修道士)が派遣される。
同時期に列聖調査が開始。
1234年5月27日 アルテネシュの戦い(シュテディンガー十字軍)。
教会税の支払いを拒否した農民を虐殺。
1234年11月 ローマ教皇グレゴリウス9世より教皇勅書『Rachel suum videns』が発布。
1239年 フリードリヒ2世とアル=カーミルの結んだ協定の期限が切れる
(アル=カーミルは1238年に他界)。
~1241年 『Rachel suum videns』に触発されたイングランド・フランスの連合軍が
エルサレム王国の領土を拡大(バロン十字軍)。
1241年4月9日 リーグニッツの戦い。
1244年 トルコ系ホラズムの軍勢が十字軍国家の各地を襲撃。
1244年10月17日 ラ・フォルビーの戦い。参戦した騎士修道会のメンバーのほとんどが死亡。
1245年3月 十字軍とモンゴル軍の間で同盟を結ぶため、ローマ教皇インノケンティウス4世が
モンゴル軍のグユクの元にフランシスコ会修道士を使者として派遣。
しかし決裂に終わる。
1245年夏 第一回リヨン公会議が開催。
ローマ教皇インノケンティウス4世が第七回十字軍への参加を促す。
1248年夏 第七回十字軍の遠征開始。
1249年6月5~12日頃 ダミエッタ包囲戦。
1249年11月
~1250年4月5日
マンスーラ戦。同年4月6日に十字軍が降伏する。
1260年代 エルサレム王国の領土縮小、内部抗争が勃発。
特に1256年に起きた聖サバス戦争(war of saint sabas)は大規模な内戦となる。
1260年頃 北イタリアで鞭打ち苦行運動が発生。
1261年 ビザンツ帝国が復興、ラテン帝国滅亡。
1265年 エルサレム王国とマムルーク朝ルクン・アッ=ディーン・バイバルスの間で結ばれた
休戦協定の期限が切れる。
1265~1271年 マムルーク軍により十字軍国家の各地が陥落。
1269年 アラゴン戦士を乗せた船がアッコに到着。
1270年 フランス王ルイ9世(第七回十字軍の指揮官)が
第八回十字軍としてチュニジアチュニスを攻撃するが失敗。
1271年4月 マムルーク軍によりクラック・デ・シュバリエが陥落。
1271年6月 マムルーク軍によりモンフォール城が陥落。
1271年初夏 プランタジネット朝エドワード(イングランドエドワード1世)夫妻がアッコに到着。
1272年秋に帰国。
1274年7月 ローマ教皇グレゴリウス10世が第二回リヨン公会議を開催。
東西教会の統一が決議される。
1284年 ローマ教皇マルティヌス4世が個人的に嫌っていた
アラゴン王ペドロを標的に教皇勅書を発布。
アラゴン十字軍が結成されるが失敗。
1289年 マムルーク朝カラーウーンがトリポリを陥落。
1290年 キリスト教徒の戦士が罪のないイスラム教の商人を虐殺する。
1291年4月5日
~5月28日
マムルーク朝アル=アシュラフ・ハリールによりアッコ陥落。
テンプル騎士団総長ギヨーム・ド・ボージューは戦死、
キプロス王ユーグと重症を負った聖ヨハネ騎士団総長は港から脱出した。
1291年8月 シャトー・ペルランが放棄される。
1296年2月29日 ローマ教皇ボニファティウス8世により、
国王が戦費調達のために国内の聖職者に課税することが禁止される。
これに対しフランス王フィリップ4世は
教会の十分の一税をローマへ輸送することを禁じる。
1300年11月 アモーリー・ド・リュジニャンとテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーが
トルトーザに兵力を送り、アルワード島を占拠。
1302年夏まで耐えたもののマムルーク軍に敗北する。
1302年 ローマ教皇ボニファティウス8世が教皇権の絶対性を主張。
1303年4月 ローマ教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世に
「破門しちゃうよ」と脅迫し、服従を要求する。
1303年9月7日 フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世を襲撃、捕縛する。
この後ボニファティウス8世は救助されるが精神的ショックにより他界。
1306年 聖ヨハネ騎士団ロードス島を制圧、ここを本拠地とする。
1307年10月13日 フランス王フィリップ4世の命により、フランスにいるテンプル騎士団全員が
神への冒涜、魔術、同性愛、異端、背教、悪魔崇拝の罪で投獄される。
1309年 ローマ教皇クレメンス5世と教皇庁がフランスのアヴィニョンに移る。
アヴィニョン教皇時代開始。
1311~1312年 ヴィエンヌ公会議が開催。テンプル騎士団の解体とベギン派の排斥が命じられる。
1314年3月 ジャック・ド・モレーが火刑に処され、テンプル騎士団が消滅。
1321年9月 ヴェネツィア貴族マリノ・サヌードが『Liber Secretorum Fidelium Crucis』を
15年かけて書き上げる(1306年から執筆開始)。
しかし十字軍が結成することはなかった。
1328~1330年 ローマ教皇ヨハネス22世の対立教皇ニコラウス5世が立てられる。
1339年10月 イングランドとフランスの間で百年戦争開始。1453年まで続く。
1342年 ナポリ王ロベール1世がマムルーク朝と交渉し、
フランシスコ会士をエルサレムに定住させる許可を得る。
1344年 聖ヨハネ騎士団ヴェネツィアキプロスと連合してイズミル(スミュルナ)を奪還。
1402年まで支配下に置く。
1347~1350年 ペストの大流行。各地でユダヤ教徒の迫害が行われる。
1335年 マムルーク朝により、フランシスコ会
エルサレム内の修道院の所有権をもつことが認められる。
1353年 枢機卿アルボルノスにより教皇庁がローマに戻る。
1365年 聖ヨハネ騎士団キプロス王によるアレクサンドリア急襲。
1367年10月16日 ローマ教皇ウルバヌス5世が教皇庁をローマに戻す。
1370年9月27日 ローマ教皇ウルバヌス5世がアヴィニョンへ移る。
1374年 イングランドのジョン・ウィクリフが『俗権論』を出版する。
財産を保有し堕落した聖職者を救済すべく、世俗権力は彼らから
略奪を行っても構わないと説いた。
1377年 ローマ教皇グレゴリウス11が教皇庁をローマに戻す。アヴィニョン教皇時代が終了。
1378年3月27日 ローマ教皇ウルバヌス6世と対立教皇クレメンス7世が立てられる。
教会大分裂大シスマ)。
1379年6月 対立教皇クレメンス7世が教皇庁アヴィニョンに移す。
1381年6月 ロラード派のワット・タイラーにより農民一揆が発起。同年6月15日に鎮圧。
1396年 東方諸国と西方騎士が連合してオスマン帝国と衝突するも敗北(ニコポリス十字軍)。
1403年 ボヘミアプラハ大学内にて、
ドイツ人(カトリック)とチェコ人(ロラード派)の間で大規模な論争が勃発。
1409年 プラハ大学の大論争に対し、ボヘミア国王ヴァーツラフが
クトナー・ホラの勅令でチェコ人側を勝利させる。
1409年6月 ピサ公会議が開催。
新たに教皇アレクサンデル5世が立てられるがアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世と
ローマ教皇グレゴリウス12世が退位を拒否したため3人の教皇の間で対立。
1410年 タンネンベルクの戦い。これをきっかけにドイツ騎士団は衰退の一途をたどる。
1412年 対立教皇ヨハネス23世が戦費調達のためプラハで贖宥府を販売。
これに強く反対したヨハネス・フスがボヘミアから追放される。
1413年 ロラード派のジョン・オールドカースルが反乱を起こすが鎮圧、後に処刑される。
1415年5月29日 コンスタンツ公会議にて『Haec sancta synodus』が発布される。
公会議カトリック教会の至上権をもつと定めた。
1415年7月6日 コンスタンツ公会議にてヨハネス・フスが異端者として火刑に処される。
1417年7月26日 コンスタンツ公会議にてアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世廃位。
1417年11月11日 コンスタンツ公会議にて教皇マルティヌス5世が立てられる。
1378年から続いた大シスマ終結
1418年 教皇イングランド国王の間で政教協約が結ばれる。
1419年7月30日
~1436年4月23日
フス戦争が勃発(フス十字軍)。
ドイツ王ジギスムント軍(カトリック)は主にターボル派によって撃退される。
1431年12月 バーゼル公会議にて、ローマ教皇エウゲニウス4世と公会議の間で対立が発生。
1438年 フランス国内で「ブールジュの国事詔書」が公布される。
1439年6月25日
~1449年
バーゼル公会議派によりローマ教皇エウゲニウス4世(教皇主義)の対立教皇
フェリクス5世(公会議主義)が立てられる。
1449年4月7日 対立教皇フェリクス5世が教皇を自称しなくなり、事実上公会議教皇に敗北する。
これ以降対立教皇は選出されない。
1453年5月29日 オスマン帝国によりビザンツ帝国が滅亡。
これ以前にビザンツ皇帝ヨハネス8世から教皇エウゲニウスに向けて
援軍要請が送られ、見返りとして西方教会と再統一する意志が伝えられたが、
ビザンツ帝国が消滅したため白紙となった。
1460年 ローマ教皇ピウス2世により回勅『Execrabilis』が発布される。
教皇が絶対権限を握ると宣言。
1517年 オスマン帝国エルサレムを征服。
1510年代前半 ローマ教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の工事費を工面するために
ドイツで贖宥府を販売。
1517年10月31日 マルティン・ルターが『95箇条の課題』を発表。
ドイツ宗教改革(後にプロテスタントと呼ばれる)の発端となる。
1521年 オスマン帝国レイマン1世がベオグラードを陥落。
1521年5月26日 ヴォルムス帝国議会にて神聖ローマ皇帝カール5世が
ルターに追放令を下す(ヴォルムス勅令)。
1522年 オスマン帝国によりロードス島が陥落。
聖ヨハネ騎士団マルタ島へ移動。
1523年1月 ウルリヒ・ツヴィングリがチューリヒ宗教改革運動を開始する。
1524年6月 ドイツ農民戦争
カトリックプロテスタント諸派の連合軍とトーマス・ミュンツァー率いる反乱軍が衝突。
1525年にミュンツァーが処刑されて終結する。
1526年 モハーチの戦い。オスマン帝国軍の攻撃を受けハンガリー王ラヨシュ2世が戦死。
1526年 シュパイエル帝国議会が開催、ヴォルムス勅令が廃止される。
1527年 チューリヒ(スイス)のリマト川で再洗礼派のフェーリクス・マンツが溺殺刑に処される。
1527年5月 神聖ローマ皇帝カール5世がローマ掠奪を行い、ローマ教皇を自身の監視下に置く。
1527年夏
~1528年1月
ツヴィングリによってスイス各地でキリスト教都市同盟が結成される。
これに対しカトリック側はキリスト教連合を結成。
1529年 第二回シュパイエル帝国議会が開催、ヴォルムス勅令の実施を決定。
1529年 カトリック教会(キリスト教連合)とプロテスタントキリスト教都市同盟)の間で
宗教戦争が勃発(第一次カペル戦争)。
1529年9月26日 オスマン帝国レイマン1世がウィーンを包囲。
1529年10月1~4日 神聖ローマ皇帝カール5世に対抗すべく、
ルター派とツヴィングリ派の双方が集まりマールブルク会議が開催される。
しかし話し合いはまとまらずに終了。
1530年代 ミュンスター千年王国ミュンスターを新エルサレムとみなした。
1530年 神聖ローマ皇帝カール5世がアウクスブルク帝国議会を招集。
プロテスタント諸派から説明を求めたが、表明文の朗読が許されたのはルター派
アウクスブルク信仰告白)のみだった。
最終的にヴォルムス勅令の再施行が決定される。
1531年 カトリック教会とプロテスタントの間で宗教戦争が勃発(第二次カペル戦争)。
プロテスタント側の指導者ツヴィングリが戦死。
第二次カペル和約が結ばれる。
1531年 ルター派の諸侯や都市がシュマルカルデン同盟を結成。
~1532年 チューリヒのリマト川で5人の再洗礼派が溺殺刑に処される。
1533年3月 イングランド議会でで上告禁止法が制定される。
1534年8月15日 イグナティウス・ロヨライエズス会を設立する。
1534年11月 イングランド議会で国王至上法が制定される。イングランド国教会が成立。
1538年 カトリック側がシュマルカルデン同盟に対抗すべくカトリック諸侯同盟を結成。
1540年頃 オランダにカルヴァン派が定着。
1544年 神聖ローマ皇帝カール5世とフランスの間でクレピーの和約が結ばれる。
1546年6月 シュマルカルデン同盟の指揮官ザクセン公モーリッツが皇帝側に寝返る。
シュマルカルデン戦争の開始(1547年まで)。
カトリック・皇帝側の勝利。
1547年 神聖ローマ皇帝カール5世がアウクスブルク帝国議会で「仮信条協定」を制定。
しかし自身に有利となる条件を付与したためにカトリック側からも反感を買う。
同年モーリッツが皇帝を裏切り福音派へ改宗。
1549年6月 フランス王アンリ2世が裁判なしで異端者を処罰可能とする勅令を公布。
1552年 諸侯戦争で神聖ローマ皇帝カール5世が大敗を喫する。
1552年 イングランドプロテスタント化がすすめられる。
1553年8月 ジュネーヴにて、ジャン・カルヴァンと対立していた医者ミカエル・セルヴェトスが
火刑に処される。
1554年11月 イングランドで第三回議会が開催。第二次廃棄令によってカトリック化が促進され、
プロテスタント信徒の迫害が行われる。
1555年9月 ジュネーヴカルヴァンリベルタン派に勝利する。
1555年9月25日 アウクスブルク帝国議会で宗教平和令が公布される。
カトリック教会とルター派を正統と定める。
1559年 スコットランドにて、ジョン・ノックスの説教がきっかけとなり
会衆軍(プロテスタント)と摂政軍(カトリック)の間で戦争が勃発。
会衆軍が勝利する。
1559年4月 イングランドエリザベス1世がローマと断絶。イングランドは国家教会主義となる。
1562年3月 シャンパーニュ地方(フランス)のヴァシーにて、カトリック派のギーズ公が
プロテスタント信徒を襲撃する。
ユグノー戦争の勃発。
1565年10月 オランダの低地諸州支配者であるフェリペ2世が異端審問の強化を促進。
ゼゴビア書簡。
1567年 フェリペ2世がアルバ公を低地諸州に派遣し、異端者の弾圧を指示した。
1572年 サン・バルテルミの大虐殺。
1584年 第八次ユグノー戦争、三アンリの戦い
(フランス王アンリ3世、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボン、ギーズ公アンリ)。
最終的にアンリ・ド・ブルボンがフランス王アンリ4世に就任する。
1598年4月 フランス王アンリ4世がナントの王令が発布。ユグノー戦争が終結
1606年 帝国都市ドナウヴェルトでルター派住民がカトリックの聖体行列を襲撃。
これをきっかけにバイエルン公マクシミリアン1世は
ドナウヴェルトをカトリックに復帰させる。
1608年 ドイツのプロテスタント諸侯が同盟(ウニオン)を結成。
指導者はプファルツ選帝侯カルヴァン派)。
1609年 ドイツのカトリック諸侯がミュンヘンで連盟(リーガ)を結成。
指導者はバイエルン公マクシミリアン1世。
1618年5月23日 窓外放出事件を発端に三十年戦争が勃発。
1618年11月
~1619年5月頃
ドルドレヒト会議にて、オランダのホマルス派とアルミニウス派の対立に決着。
マルス派が勝利する。
1620年 プラハ近郊、ピーラー・ホラの戦い。
バイエルン公マクシミリアン1世配下の将軍ティリー(甲冑の修道士と呼ばれた)が
プファルツ・ボヘミア連合軍に勝利する。
1623年 レーゲンスブルクの選帝侯会議にて同盟が解体され、
プロテスタントへの迫害・追放が行われた。
1625年 デンマーククリスティアン4世(ルター派)がドイツに進軍。
これに対し軍事企業家・傭兵隊長ヴァレンシュタインが立ち向かい、
プロテスタント諸侯軍に勝利する。
1626年 ルッターの戦い。連盟軍がデンマーク軍に勝利する。
1629年 デンマーククリスティアン4世が敗北を認めドイツから撤退する。
1632年春 レヒ河畔の戦いでスウェーデングスタフ・アドルフが連盟軍のティリーを破る。
ティリーは戦死。
1632年11月 ザクセン(ドイツ)のリュッツェンでスウェーデングスタフ・アドルフ軍と
ヴァレンシュタイン軍の決戦開始。
この戦いでスウェーデン王が戦死。
1634年 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の命により、
自分勝手にふるまっていたヴァレンシュタインが暗殺される。
1635年5月 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とザクセン選帝侯・ルター派諸侯の間で
プラハ平和条約が結ばれる。
その後フランスの介入によりフランス・スウェーデン側が優勢になる。
1648年11(10)月 ヴェストファーレン講和条約の締結、三十年戦争が終了。宗教戦争終結
1685年 フランスにて、フォンテヌブロー王令によってナント王令が破棄される。
1798年 ナポレオン・ボナパルトマルタ島を占領する。
19~20世紀はじめ 14世紀に行われたテンプル騎士団の処刑を疑問視する声が上がる。
20世紀頃 カトリック教会から公式に「テンプル騎士団の処刑は冤罪」という見解が示される。
2004年 16世紀にチューリヒ都市当局とツヴィングリによって溺殺された
フェーリクス・マンツをはじめとする再洗礼派の名誉が回復。
リマト川岸辺に記念碑が建設される。

 

主要な派閥など(宗教改革まで)

【原始キリスト教~十字軍運動以前まで】

  • コリント教会ギリシア
    原始キリスト教(1世紀)の中で建てられた。
    パウロの書簡では異端的傾向が示唆されている。
  • ローマ教会…原始キリスト教(1世紀)で建てられた教会の中でも大規模な成長を見せたが、西ローマ帝国の衰退に巻き込まれ大きな打撃を受けた。
    主要言語はラテン語
    時代を経てカトリック教会に押される。
  • カトリック教会…三位一体を唱えたコンスタンティノポリス信条(381年。ニカイア信条をより明瞭にしたもの)の制定から権威を増す。
    主要言語はラテン語ギリシア語。
  • グノーシス…エジプトやシリアなどに根付いた宗教や思想の総称。
    2世紀頃にキリスト教と融合して異端が生まれる。
  • 新約外典・新約偽典使徒教父と呼ばれる者たちが書いた文書のうち異端的な要素を含むもの。
    外典に関しては一部正統な記述も見受けられる。
  • マルキオン派小アジア
    旧約聖書ユダヤ教を全面的に否定。
    パウロの10の書簡とルカ福音書を正典とみなす。禁欲主義。
  • モンタノス派小アジア
    民衆に対し厳格な禁欲、断食、罪の告白を促し、天国の到来を予言した。
  • マニ教ササン朝ペルシア。
    ゾロアスター教キリスト教と仏教を混ぜ合わせて作られた。善悪二元論
    ローマ帝国においては297年に禁止令が下された。
  • サベリウス派…3世紀頃。三位一体に対しイエスを神の一様態として扱う様態論を主張。
  • ドナティズム…3世紀頃のローマ属州アフリカとヌミディアで拡大。
    厳格派であり、棄教者による洗礼および聖職者の叙階を無効とした。
  • アリウス派…3世紀頃、アレクサンドリア教会の司祭アリエスが発端。
    エス唯一神の被造物(≒イエスは神ではない)と主張。
    451年のカルケドン公会議で異端と認定された。
  • ネストリオス派…マリアを「キリストの母(クリストトコス)」とみなし、イエスが人であることを強調。
    451年のカルケドン公会議で異端と認定された。
  • 単性論…イエスを神あるいは人のどちらか一つとして扱う説?
    エウテュケスの場合は受肉したイエスを人とみなした。
    451年のカルケドン公会議で異端と認定された。
  • 合性論…神と人は別々の性であり、融合せずに一つの形をとるという説?
  • ペラギウス派…個人の自由と責任を尊重し、神から人への関与に反抗的で原罪を認めない。
  • ベネディクト会…529年にモンテ・カッシーノ修道院に移ったヌルシアのベネディクトゥスが発端。
    「祈り、働け」をモットーとし、厳しすぎず怠惰でもない規則を定めて共同性を重視した生活を営む。
    ベネディクト系修道会の修道士は学問や写本の作成を行うことが多かった(『大年代記』などで有名なマシュー・パリスもベネディクト会修道士)。
  • クリュニー会…909年のフランス中部ブルゴーニュ地方で創立された。
    修道士は労働を行わず典礼を重要視(貴族的ともいえる)。
    荘厳なミサや礼拝を行った。
  • 神の平和運動…975年頃に発生。
    当時出現した騎士階層の間で勢力争いが勃発し、聖職者や商人などの非戦闘員がとばっちりを受けた。
    格地域の領主、騎士、民衆を呼び出して聖遺物を前に非戦闘員(家畜なども含む)に危害を加えないことを誓約させた。

 

【十字軍運動~宗教改革まで】

  • シトー会修道院はたいてい荒野に建設された。
    ベネディクトゥス規則(労働と清貧など)を重要視しクリュニー会を批判。
  • カルトジオ(シャルトルーズ)会…穏修士の共同体。
    人里離れた場所で生活を営む一方で人々に対し積極的に説教をする「自由説教」を行った(自由説教をするにはその地域の司教から許可をもらう必要がある)。
  • 騎士修道会ローマ・カトリック教会に従属する。
    修道士自らが戦闘行為を行う。
  • カタリ派…スコラ学的思想から教説が生まれたとされる。
    マニ教や東方のボゴミール派から派生したという説は現在(2017年)ではあまり有力でないらしい。
    • アルビジョワ派…南フランスのラングドック地方でみられた異端者集団。後にカタリ派と呼ばれた。
  • ヴァルド派…リヨン商人ヴァルデスが発端。
    財産の放棄、教会の位階制(ヒエラルキー)を批判。
    1184年、ヴェローナ教会会議にて「リヨンの貧者たち」と呼ばれ異端の烙印が押される。
  • ボゴミール派…東方の異端。
  • フランシスコ会托鉢修道会の一つ。
    信徒を主体とし、清貧・愛・勤労を掲げ財産の所有を禁じた。思想としてはヴァルド派に近い。
    後にフランチェスコの意志を厳格に保守する者と教皇の指導を受け入れる者とで対立が発生する。
  • ドミニコ会托鉢修道会の一つ。
    暴力に訴えず生活の模範を示すことでカタリ派の説得などを試みた。
  • 公会議主義公会議を至上とする考え。
    たとえ教皇であっても公会議の決定には従わなければならない。
  • 神秘主義運動…神やそれに準ずる存在が個々人に直接働きかけるという思想。
    14世紀には神の友、新しい敬虔、共同生活兄弟団などが生まれた。
    彼らの設立した学校の出身者にはデシデリウス・エラスムスマルティン・ルターなどがいる。
  • 鞭打ち苦行運動…男性が中心。
    エスの受難を体現するため33日と半日間、各地を巡礼しながら自分の体に鞭を打って血を流す。
    聖職者を伴わない上、血を流す自分たちの姿をイエスと同一化したことからカトリック教会に危険視された。
    誕生は1260年だがペストの流行に影響され14世紀のドイツで急激に広まった。
  • ベギン派…女性が中心。清貧と貧者や病人への奉仕活動を掲げて共同生活を営んだ。
  • ロラード派…聖書主義者。
    聖職者や説教師などのうち一般信徒に対して彼らの言葉だけで十分とする者たちを異端者と非難し、一般信徒は自身で聖書を理解することが必要と説いた。
    またカトリック教会の化体説を否定した。
  • フス派ボヘミアプラハ。教会の世俗化に反発。
  • ウトラキストボヘミアプラハ四箇条を掲げるが比較的穏和。
  • ターボル派ボヘミアプラハ四箇条を掲げ、聖書に記載のない儀式・秘跡などを拒否する過激派。
  • 一致兄弟団ボヘミア
    ブルージュの国事詔書による再カトリック化を受け入れなかった。
    誓約を拒否し、俗人でありながら仲間同士で共同生活を営み、戦闘にも参加しなかった。
  • 福音派教皇主義に対するプロテスタント諸派を指す。信仰の対象を聖書のみと定める。
  • ルター派宗教改革の原型。聖書主義、魔女狩りを積極的に行った。
    聖書以外にアウグスティヌスの著作や神の友(神秘主義)による『ドイツ神学』から影響を受けている。
    ツヴィングリ派、カルヴァン派と対立。
    アウクスブルク信仰告白に基づき正統信仰の権利を手にした。
  • トーマス・ミュンツァー…農民戦争の指導者。聖書主義に対し聖霊主義を主張。
    ミュンツァーが先導した農民戦争はカトリックプロテスタントの連合軍により鎮圧される。
  • ツヴィングリ派…パンとぶどう酒をイエスの体の一部であるとみなさず、聖餐という行為自体を「イエスが犠牲になった」ことの象徴と捉えた。
  • 再洗礼派…ツヴィングリ派から派生。
    聖者共同体への加入儀式として再洗礼(成人洗礼)を施した。
    ミュンツァーの弟子や終末を自力で導くために暴力を働く者などが参加し、様々な思想が渦巻いていた。
  • カルヴァン派ジュネーヴの改革派。ルター派と対立。
  • リベルタン派(ジュネーヴジュネーヴの改革派。
    自由主義市民意識が高く、戒律的な宗教支配を嫌う。
    カルヴァン派に反対。
  • ユグノー(フランス改革派)…フランス。カルヴァン主義。
  • ピューリタンイングランドの親プロテスタント
    共通祈祷書で規定された聖職服の着用を拒否するも論破され、その後主教制度の廃止を主張した。
  • マルス…オランダ。予定説を厳格に解釈した。アルミニウス派と対立。
    オラニエ公ウィレム1世の次男マウリッツを筆頭に、改革派の亡命者や社会的階級の低い者たちが集まった。
  • アルミニウス…オランダ。予定説を緩く解釈した。ホマルス派と対立。
    都市の貴族や有力商人など国家権力を支持する者が多かった。
  • イエズス会カトリック教会下の修道会。

 

メモ

  • 十字軍運動によってヨーロッパ人と異文化間との交流が比較的盛んになった。
  • 十字軍として認められるのは誓いを立てた者のみ。シグルズ1世は誓いを立てたかどうか定かではない。
  • 11世紀頃~12世紀頃?は長い髪と長いあごひげが男らしいとされていた。
    特にあごひげはめっちゃ長い人だとおへそのあたりまで伸ばしていたらしい。
  • ドリュラエウム~エルサレムへ向かう道のり(現在のトルコ~シリア~イスラエルあたり)は夏は乾燥した暑さに襲われ、冬は寒く度々雨が降り低体温症になる巡礼者が多かったらしい(中世当時)。
  • 投石器、攻城塔は城壁に囲まれた土地に攻め込むのに便利だが資材の調達や組み立てに時間がかかる。
    攻城塔を使う場合、ほとんどの城壁の外側に掘があるためまずはこれを埋める。非戦闘員などが掘を埋める作業を担った。
    攻城塔に登った戦士は城壁に辿りつくまでは弓などを用いて攻撃を仕掛ける。ただし全身がむき出しになるので敵の攻撃を食らったり塔から転落すると即死する危険が高い。
    当時はギリシャ火薬と呼ばれる可燃性の物質を投擲武器に用いることがあったため、燃えにくいウマ・ラクダの皮、ウシの皮(場合によってはそれらを湿らせることもあった)を攻城塔に張り付けた。
    投石器は岩を放つだけでなく、敵の首を絞めて殺害したり、敵兵から切り取った首を敵陣地に投げ入れたりする目的でも使用された(ニカイア包囲戦など)。
    生首を投擲する理由には敵陣営内で伝染病を発生させることが挙げられる。
  • 冬の間は海が荒れるため出航できない。
  • 十字軍が身につけた十字架の印はあちこちに散乱する遺体が敵あるいは味方のものかを判別する際の目印にもなった。
  • 大貴族のほとんどは弱い生き物(ウサギなど)をいじめて殺すのが好きだったらしい。
  • 十字軍には売春婦が同行していた。
  • 文字を読める聖職者などは聖書を読み、一方文字を読めない平民などは劇場で開催される神秘劇(演劇)で聖書に記された出来事などを学んだ。
  • 列聖調査によって聖人とみなされた人物の特徴は時代によって大きく異なる。
    教皇が時代ごとに「理想の信徒像」を聖人に反映したことが大きな理由であるという。
  • 12世紀から発生した「煉獄」の概念は、生者が聖職者に多額の金額を支払って死者のために繰り返しミサをあげてもらうことで煉獄における試練が軽減されると考えられていた。
    ここから教会の腐敗の片鱗が見え始める。
  • イスラム教徒が記した文書によると十字軍諸侯は総じてエゴイスト、野蛮、かつ悪臭を放っていたという。
  • 秘密結社とされるものの条件には「活動を公にしない」ということが含まれているらしい。
    13世紀中ごろに発生した異端審問の影響もありヴァルド派は地下で活動を行った。その経緯から彼らが秘密結社と認定された一方でカタリ派は秘密結社ではなく単に異端として迫害された。
    騎士修道会でも同様に、テンプル騎士団は夜間に入会儀式を行ったため秘密結社とされたが、聖ヨハネ騎士団は教会から特にお咎めを受けなかった。
  • 修道士になる者のほとんどは家督相続権のない騎士階級の末っ子だった。
  • 様々な修道会の間柄であってもどこかの修道士が他界した場合は各修道院に報せが届き、殉教した修道士のために祈りが捧げられたという。
  • 修道士になるのはお金がかかるので貧しい身分のものは助修士(助修女)になるのが精いっぱいだった。
    修道女の場合は貴族と縁のなかった娘や夫を失った妻などが多かった(再婚がタブー視されていたため)。
    また修道女は一律に修道女として扱われ、守門、読師、祓魔師、侍祭、副助祭助祭、司祭に就くことは不可能。
  • 1038年に発生した農民による騎士への反乱(ブールジュ大司教アイモが先導)は農民側が虐殺されて幕を閉じたが、この時点ですでに戦う人である騎士と働く人である農民に大きく差が生まれていることがわかる。
  • カトリック教会・プロテスタントで共通しているのは三位一体を教理とすること。

 

ひとりごと

著者さんによっては十字軍の指揮官や教皇などに対する評価がかなり異なるみたいです(特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世、フランス王ルイ9世ローマ教皇クレメンス5世)。


初期キリスト教の司教の中にはローマ帝国から追放→追放された土地で布教活動を行う→さらにその土地からも追放→なんやかんやあって帰還できた人もいたそうです(アレクサンドリア司教ディオニュシオス)。


聖書には矛盾した記述があるらしく、書かれていることすべてを真実と思って読むと混乱するらしいです。
これは記録した人物の解釈の差異によって生じたものだそう。
今度読もうと思っていましたが旧約聖書だけでも2000ページくらいあったのでちょっと迷っています。



テンプル騎士団の処刑はフランス王フィリップ4世が諸悪の根源とされることが多いようですが、19~20世紀に入るまで一般的な見解としてテンプル騎士団が異端扱いされていた(もしここで疑問視する声が上がらなかったら彼らはずっと異端とされたのかも)ことを考えると、14世紀当時の彼らに対する異端視や処刑は民衆からも支持を得ていたような気がします。
カタリ派をはじめとする異端の流行や教皇直属の異端審問官が13世紀頃に出現していることも多少関係ありそう…?
14~15世紀以降加速する魔女裁判は民衆の社会的不安(天候悪化、物価高騰、伝染病流行など)の八つ当たりとして行われた事例もかなり多いらしいので、いろいろな要因が重なった結果処刑に至ったのかなと思いました。
あとは単に処刑をショーとして楽しんでいたというのもあるかも。ただの勘違いだったら恥ずかしい。
テンプル騎士団チューリヒの再洗礼派のように記録に残っている人々は後年に名誉を回復されることもあるみたいですが、記録がされなかったり焼失したりした場合は冤罪だったとしてもずっと汚名を着せられたままになるのかどうか気になります。


すごくどうでもいいことなんですが、地域に限定されず男色だった貴族の話は見かけるのに女同士の恋愛についてはほとんど見かけないことに疑問を感じました。
記録が残っていないだけで普通にあったことなのかもしれませんが。


参考文献

・『図説 西洋甲冑武器事典』
・『キリスト教の歴史Ⅰ』
・『十字軍騎士団』
・『十字軍全史』